色褪せないモノです。真の名曲というのは。
1980年。中学2年生のワタシ、本格的に洋楽リスナーへと移行してった頃なんだけど日本ではニューウエーブやらテクノポップという目新しいブームも到来。ワタシは同級生の男子達に交じって(女子はみーんな聖子ちゃんか御三家)自分の持ってるYMOの音源をテープにおとして交換しあってたっけ。その年の暮れに『YMOワールドツアー』をNHKがオンエア。当時はまだビデオデッキなんざなかったのでカセットデッキをラインで繋いでテープに録音。
※『あまちゃん』ではラジカセをテレビの近くに...
的な行がありましたが、
80年の段階では我が家は一歩進んでたな(笑)
YMOのバックで鍵盤を弾き、
猛烈にシュールな歌を唄う『この女の人はだれ?』
唄い方はケイトブッシュっぽいけど、なんだろもっとほっこりしてるし?だけどこの人ホンモノのキ○○○イ???とホンキで思わせる、所謂『笑いながら平気で人刺しちゃう』ぐらいの鋭さと危うさと、でも包容力も感じられるその女性にYMOそっちのけで釘付けになったのでした。
それがファースト矢野顕子(笑)
その時唄っていたのが『
在広東少年』(←まさにこの映像!)で、これにはまっちゃたからさあ大変(笑)その瞬間から寝ても覚めても矢野顕子(爆笑)年明けて新学期、YMOのテープ交換仲間の一人、Oくんに早速その話をしたら『うんうん良いご趣味!(笑)』と次の日に『ごはんができたよ』という矢野顕子のアルバムを持って来てくれた。しばらく預かっといて、と云われその後2ヶ月程うちのステレオにてヘビーローテーションされる訳だが、『預かっといて』には少しヘビーな理由があって、彼は重度の腎臓病を患っていて入退院を繰り返していたの。また入院が決まったらしく『レコードは聴いてあげないと可哀想だから聴きたい人に聴いてもらてた方がいい』という理由でレコードを貸し出してくれたのでした。
そんなヘビーな事情もありつつ家に帰ってレコードに針をおとす。在広東少年のようなエキセントリックな楽曲満開なんだろーなーと半ばワクワクしながらおそるおそる針をおとし...曲がスタートする...
『ん?』
もうねイントロですでに号泣モードってすごくない?(笑)そう、一曲目に収録されているのが発表からすでに30年以上たっても色褪せる事のない名曲中の名曲『
ひとつだけ』 なのでした。
それまでメロディーで泣いた事は幾度となくあったのだけど、歌詞とメロディーがあんまりにも切なくて思春期の少女は胸がいっぱいになるばかり。胸がいっぱいになりすぎて叫んでしまいそうになるくらい、この曲のもつパワーに支配されてしまったのであった。この苦し心地よい気持ちををなんとか外に出すために(以前からそうであったのだと思われますが)ピアノの前に座り、メロディーを紡いでいく習性が生まれたのでした。
当時はまだ子供で、ホント気付かなかったんだけど
『離れている時でも 私の事 忘れないでいて欲しいの』
Oくんとは相思相愛だったのかもしれないなぁ、って今さら(笑)結局良い友人のままだったけどね(笑)音楽レベルでは同等いやそれ以上の知識と感性を備えていたので、ホント会話してて楽しかったのだ。 歳を重ねるごとに彼の病状もすっかり回復して、別々の高校へ行き、ホントそのまま。
それに気付いたのは
清志郎バージョンを聴いた瞬間でした(笑)
『離れている時でも 僕の事 忘れないでいて欲しいよ』
今ごろどうされてるんでしょうね?Oくん。
と、猛烈な勢いで書いてしまったが
それっくらい大事で大事で仕方がない曲を、
畏れ多くも昨日のLIVEでついに
カバーしてしまったのである。
毎年秋に行われる川上次郎君のイベントでは
恐縮しながらこの曲のバッキングを
させて頂いているんですが、
自ら弾き語るのはホント初演でございました。
自分の曲以上に弾き語り歴長いんで(爆笑)
ものすごくリラックス。
いつも以上にリラックス(笑)
まぁ30数年経って
初期衝動がホント良い具合に消化されたってのと
ホントの事言うと
『無性に唄いたくなった』からじゃないかな?